STAND ALONE


箱入りの図鑑。ゴワゴワしたボール紙の中にからそっと取り出す。めくるたびに僕の知らない世界があるんですよと教えてくれる。体は決して強い方じゃなかった僕は、度々学校を休んだ。行く気がしなかったわけじゃないけど、体が動かないんだ。図鑑は、その頃の僕の友達だった。春の花、夏の花、秋の花、冬はロゼットとなって寒さに耐えるタンポポ、様々な植物達。昆虫もまた素敵だった。生物だけど生物とは思えない、メカちっくな胴体。スズメバチ。

僕が見ることの出来る世界は、ごくごく限られている。整えられた部屋に敷かれた暖かな布団。図鑑をとじて、目に映る天井。外の世界はひろい、らしい。これから僕が出会う人は今頃何をしてるんだろう。僕が将来つなぐはずの右手は、確かに存在してるのに、僕はまだそれが誰の手か知らない。図鑑が僕の世界だった。

ビルマ、西ドイツ東ドイツ、ユーゴスラビア、コロンビア、タイ、ベトナム。知らない国に知らない人達が住む。雨の降り方も、日の射し方もきっとまるで違うんだろう。紹介されるのは祭の時の華やかな画像。笑う子供達。その国が誇る遺産。地図は生き物でどんどん変わっていくけど85年に見た地図帳は、何も変わりはしないで、このままずっとあり続けるとしか思えなかった。争い事は本当にあるんだろうか。まるで遠い世界。まるで、まったく。

その中でも僕はエジプトに特に惹かれていた。砂漠の写真を見ると胸がちりちりするし、僕が生まれる前も、そしていつかはわからないけど僕が死んだ後も、この石造りの建造物はあり続けるのだろう。日本地図といい、世界地図といい、理由も無いのにやたら気になる地名というのはある。どうして気になるのかはわからないが、頭に引っかかったまま、地名が勝手に自己主張をはじめるんだ。そして大概、その町では何かあるんだ。知り合ったヤツがその町に住んでたりってのは、ザラだし、下手をすると住む羽目にだってなる。どうせなら、パリだとかフィレンツェ、ミラノなんて街と縁があって欲しかった物だけど、勝手に気になるのだから、僕が意図的に変えることはできない。運命の輪は進む。僕を置いてけぼりにして。

「典明、家族旅行いかない?」
「えっ!?」
「もうチケットも取っちゃった。皆で3週間のエジプト旅行よ♪世界は自分で見なくっちゃ」

家族旅行は憂鬱だった。だけど母が乗り気なんだ。チケットももうあるというし、どうもこうもない。搭乗ゲートをくぐってジャンボジェットに乗り込むだけだ。墜落事故があったばかりだけど。

17時間、ひたすら座りっぱなしというのも退屈で、僕はハイエロファントグリーンと名付けた、緑色のそいつを出したり引っ込めたりして遊んでいた。考えは僕と一緒だからジャンケンは出来ないけど、こっそり腕相撲をするぐらいならできた。僕は退屈しきっていた。

数日は観光名所をひたすらめぐり、家族の中の子供らしく振る舞うのも疲れ、僕は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しボトルから直接飲んだ。電気もつかないし、カーテンもない部屋では、ガラス窓の向こうの星がよく見える。ひとつ、ふたつ、みっつ、と数えだしたとき、ハイエロファントグリーンが突然床に落ちた。このころの僕は、だいぶ制御できるようになっていたから、僕の意志と関係無しにこいつが勝手に出るなんて、おかしいことだ。触手は伸びきって、カサカサにしなびており、ひどくおびえているように見える。コイツは僕、ではないのか?僕なはずだろう?僕の意志と反して、一体どういうわけだ?右腕に体重をかけて起きあがると、とんでもないめまいが襲った。まるで体内感覚の地滑り。僕の体も、何かおかしくなっている。息を抑えようとするものの、心拍数が上がりきってしまって奇妙な音が乾いた部屋に響く。湿度ゼロのこの国では、汗すら一瞬で気化してしまう。服が汚れる恐れはないのはありがたい。ハイエロファントグリーンが、おずおずと動こうとしている。どこかに行こうとしているのか?窓を開け放つと、水を得たように僕の分身は仰け反り、夜の街路へ流れ出していった。あいにく僕は生身の人間だ。ドアを開け階段を下り、フロントにキーを預けてから僕の影を追いかけた。見失ったかと思ったが、コイツも僕に何かを知らせたいのだろう。スレスレに伸びきって、カイロの迷路へ僕を導く。

どのくらい歩いただろうか。そろそろホテルに戻ろうかと思ったその時、僕の右手の階段に、一人の男がいるのに気が付いた。暗くてよく見えないが、この土地では珍しい透き通るほどの白い肌、燃えるような力を秘めた眼差しと黄金の髪が、風にざわめく。そいつは両腕を後ろにまわして体を反らし、月を背にして僕を見下ろす。僕は後ずさりした。本当は思い切り逃げ出したかった。しかし僕の意に反して身体は動かない。まるで金縛り。イヤな味のする粘ついた唾液で口の中がいっぱいだ。ギシャリと無理矢理喉の奥に送り込み、僕の目はそいつの目に捕らえられた。僕から彼。彼から僕。2つの目の間にガラス線が張られ、全ての景色が消え失せる。全身の毛が逆立ち、僕は動けないまま、何もない世界にいた。僕の全てを見透かすような青い瞳。体の内側が崩れ、僕の喉は裏返る。胃液が沸き上がって涙まで出てきた。

「君、名前は?」
その男は軽く微笑みかけて、僕の肩に手を置くと、名前を訊いてきた。
「花京院…、典明」

掠れきった僕の声を、彼は聞き逃さなかった。ぼくはもう立っているのもやっとな状態だった。全身が震え、いつの間にか僕は体重を彼の右腕に支えてもらっていた。

「そのスタンド、随分とくたびれているじゃないか」
「何のことだ!」
「緑色の、ぬめったゴムのようなコイツ。コレは君だろう」
「見えるのかッ!…スタンド?なんで、そんなまさか…」
「見えるとも。君と僕は仲間さ」
「仲間?スタンド?」
「同じスタンドを持つ者同士なんだ。私の名はDIO…」

ごく間近にDIOの呼吸音。
「花京院君…、恐れることはないんだよ。友達になろう」

彼の声を聞くと、いままで凝り固まっていた心が解きほぐされる。いつ頃からだったろう。僕の声がまるで僕のモノではなくなって、僕は自分を諦めていた。僕の友達はずっとボクだけだと思っていた。僕さえいれば僕は退屈しないと内に籠もっていた。だけど、この男なら、僕のことを分かってくれるのかもしれない。今まで誰一人として、僕のハイエロファントを認識できた人はいないんだ。そう思いたい。魅入られたまま僕はその男に跪いた。目を閉じろと彼は言い、指先で顎を上げられた。僕は彼の言葉のままに動く。

「整った顔をしているね」

口の端を上げて、中指を眉間に突きつける。何かが迸り、ブチンと痛みが走る。あまりの熱さは熱さと認識できない。冷たさとともに肉が溶け、時間差で襲いかかる灼熱感。僕は何を叫んだだろう。こんな時に呼ぶ名も浮かばない。僕はまだ神の名を呟くように、誰かの名を呟くことはできない。そのまま僕は気を失ってしまったのだろう。気が付いたら、ホテルの自室で横たわり、視界に天井が拡がっていた。

確か僕は、ハイエロファントを追いかけて…その後どうしたのだろう。
何故か分からないけど、呼吸がひたすら楽だ。こんなの一体いつぶりだろう。
光もまるで違って見えて、母にも自然に微笑みかけることができる。

今日のお茶は何にしようか。お砂糖はいくつ入れますか?
ねぇ、母さん。あなたの思惑通り、僕の世界は拡がりましたよ。
ありがとう。でもまた引っ越しなんですね。

頭を巡るその名前、静かに静かに繰り返す。

空条承太郎…。


04/02/08 花狂いさんへ捧ぐ深夜の約束。

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