鳩の影 ver.1.02


しばらく前、いやもうだいぶ前。正確には3年と2ヶ月ほど前。僕としては、なかなか穏やかな日が続いていた。何となく音楽に身を任せようかという気分になるほどに。わざわざこう書くのは、普段の僕はまず一人で出かけて踊ったりはしないからで、人と遊ぶときはお茶さえあればいいと思っているからだ。しかしまぁそんな気分の時に、割と近所にある、バーなのか何なのかわからない店が、移転で一時閉店のため、最終日は1コインでフリードリンクという大サービスをするという。それがちょうど今日で、僕もちょうどいい気分の日だった。マフラーを巻いて、ゆるい坂道を下っていった。銀杏の葉は風に舞い、太陽と僕の間に割り込み、地面をカサカサと這った。



それよりすこし前。

デパートの斜向かいにある大きな本屋で僕は何となくフラフラしていた。今日は電車に乗って、昔住んでいた港町へ行かねばならなかった。陰鬱なカウンセラーとの話し合いは気が進まない。それが僕に本屋へと足を運ばせたきっかけだろうか。朝ではないからカラスがいない。その替わりに、人と車がひしめき合っていた。カラスはどこへ行くんだろう。お茶だけ飲んで引き返すよりは、本屋で気分転換をした方がマシだろう。雑誌コーナーをふらついていたら、何ともいえないいやな気持ちが僕の中に立ちこめた。どういう訳なんだ。僕は駅へと急いだ。

切符を買おう。とっとと海のある街へ行こう。電車は何も考えないで済む。光を反射する家々の窓。規則正しい鉄柱。僕はこんな時でも力を抜くことができない。抜こうとはするのだけど。ラインシート。僕の真向かいに一人の女。いつ頃からいたのだろう。気配を消しているようで、どこかギラついている。美しくもなければ醜くもない、特徴の無い顔。入れ替わる人達。車内は混んでもいなければ空いてもいない。ガラスの向こうの光。窓、鉄柱、駅。光、窓、鉄柱、駅。繰り返しのリズムが僕を酔わす。とうてい座っていられないような猫じゃらしの嫌悪感に、眉をほんの1ミリ寄せた。かもしれない。気が付けば終点のひとつ手前の駅で、僕はそこで降りた。女は姿を消していたけど、僕は気付きさえしなかった。遠く観覧車が見える。



ひたすらな音。メタリックな照明。背骨の肩胛骨下あたりを撫でる、重低音のバイブレーション。僕はまだ呼ばれていない。耳で音を聞いているだけだ。濡れたグラスの感触を楽しみ、壁にもたれて息を吐く。徹底的に踊る人ばかりかと思ったのに、ピンヒールの女の子の姿に僕はガックリした。平穏な毎日。規則正しく、規則正しく、皿を洗い、バイトに励む。ちょっとお出かけ。規則正しく、規則正しく、リズムに抱かれる。七色のマフラーを巻いて、鳩の影を跨ぐ。鳩が啼く。ハイスピードな痛烈な日々。僕は確かに生きていた。規則なんて知ったこっちゃなく、僕は若すぎるチンピラだった。規則正しく、規則正しく、僕は生きて、彼は死んだ。アイツは生きてて、彼は死んだ。僕が庇ったもの、まもったもの。僕が庇いたかったもの、まもりたかったもの。青の音、黄色の音、緑の音。瞬間音が入り込み、僕はひざまずく。僕のリズム、僕の紫、彼の翼。ナランチャ!

好きだったもの、欲しかったもの、自分から求めさえすれば、手に入れられた筈のもの、奪えたもの。遠く放している。でも呼んでいる。待っていて、泣きながら雨の中をただ立っている。何もかも全部放り出して、僕の目の前に立って 熱く抱きしめてくれよ。なんて、いつも君を探してばかりで、僕の中では叫んでいて、泣いていて、僕はもうどろどろに溶けた熱いカタマリだ。  

「あらゆるものが毒をはらむのね。だから美しいのね。」

きしむ歯のわきから唇をこじあけて、はいずり出てくるごまかしの笑いなんか知らない。僕はずっとそんな風にごまかしてきたんだから、ぼくはそんなものしらない。イッショーケンめい頭の中をかき回してみても、考えても、何だかよくわからなくなっていて、僕は喉が震えるのを抑えてたけど、あたたかい水が目玉を濡らすのは、全然知らなかった。僕は階段を上り、どうにか店の外の空気を吸った。





オレンジの濡れた塊が
水の中へ落ちてゆく。
かなえられなかった
行き場を亡くした恋が
強く冷やされたがっている。

夜中に目を覚ませば
まっすぐに僕を見ていたのは
嘘ぢゃないでせう。
息さえも殺せずに真っすぐになっていた
闇の中でいつもぼくたちは 濡れて

  ずぶぬれだった  

思い切り、つきつめる程、愛してたとき

奪っちまえばよかった。

    それが一等かしこい

         今の僕はもう、どうでも良い。






あの日、カウンセリングから帰って、メールボックスを開いたら届いていた一通の手紙。
「 「おひさしぶり。大学生活はどうだった?」」
FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!FUCK!!
アイツまだ息してやがったのか。思い出したくもないおぞましい名前に胸がざわめく。まるでナメクジのような指。
俺は思い切りツキのけたろう。後頭部は砕けただろう。何か言いたげな口に向かって、俺は百科事典をつき落とし、お前の前歯と犬歯は肉を裂いて血が溢れただろう。お前のせいで俺の服と手が汚れちまったから、お前のスーツで拭いた後、臍に体重をかけ、髪を掴んで机の角にぶつけたはずじゃねぇか。それがあの電車の・・・どうりで・・・よくもおめおめと本屋から俺の後を付け、こんなメールを。ブッ殺したと思ったのに!

椅子の上で膝を抱えて俺は動けない。ずっと考えが頭の中をまわっていて、モニターの前でドキドキして泣いている。「不安」なんだと言われたけど、いつもそうだ。わかんない。僕の名前はパンナコッタ・フーゴ?そうなんですか?










出入り口周辺は、ビルの奥まったスペースなのだけど、割と広め。踊り疲れた男女が顔を紅潮させて話し合っていた。僕はそのまま座りこんでいたのだけど、うつむいて目を開きっぱなしにして、放心状態の兔目の僕は否応なく目立っていたんだろう。僕の周りだけ、人はいなかった。

「どうしたの?」
頭上から放り投げられた声。「フラれちゃったりしたの?」と目をくりくりさせて、膝を揃えてしゃがみ込んで、僕の方に顔を寄せてきた。女の子。今まで誰にも言ったことはなかったのだけど、僕が僕の嘘にうなずくのはもう難しく、この場の脱力感に任せて洗いざらい話してしまおうと唇をひらいた。

「友達が、死んだんだ。」

「それは・・・」

彼女が片手で口元を押さえる。

「もう半年前にそうなったのだけど、僕がそれを知ったのはついこの間だ。彼は大怪我をして意識は失ったけど、故郷の親元に帰ったと聞いたんだ。僕はそれを信じてたし、彼が無事ならそれでいいと思った。僕は彼のことをとても好きだったから、その言葉をそのまま受け入れたのだけど全然違った。無事だよと告げる電話口の向こうで彼等は喪服に着替えていたんだ。しかも笑いさえしながら僕に伝えてきて、お葬式にすら行けなかった。」

意外なほど淡々と落ちる言葉。

「私は・・・わかるなんて、簡単に言っちゃいけないと思うけど、もし私があなただったら、とても辛いと思うよ」

「僕、結局彼に好きって言えないままだった・・・って、こんな。君に話したって困るだけでしょう・・・悪い」

「そんなことないよ。私今、あんたにキスしたいって思った。」

してよ、と僕が呟くと、彼女の唇が軽く触れた。

「ありがと。彼、ナランチャって言うんだ。」

ビルの間に月がはさまっている。こっちは風なんか吹いてないのに、雲がとんでもない速さで流れてゆく。

「黒い髪がちょっとくせっ毛で、華奢な男の子。ネアポリスに・・・。」

言い終わらないうちに「その子なら私知ってる」と彼女は立ち上がり、声だけ残して消え去った。

僕は三軒隣のマタニティウエアの専門店の軒先の隙間に移動して、ナランチャを思っていた。何やってんのコイツ?だの、吐き捨てていく奴らもいたけど、すぐ近くの自分の家にすら戻る気力が起こらなかった。終電を逃した奴らが車で帰っていく。クラクションに嬌声。クソッタレの酒飲みの酔っぱらいがシワクチャな顔を撒き散らしながら大声で笑う。ひどい。醜い。僕のナランチャはいないのに。僕もひどい。醜い。



かなしいことばかりある。そんなのはいらない。そんなのいや。こんなのはいや。いやなのに。もっとほかのかのうせいがあったはずなのに。でももうもどることはできない。おどる。さけをあびる。ひとにおされる。いやだとおもってもおしかえす。おしかえせ。なにもなにもなにもなにもなにもなにもなにもかんがえない。あたまのなかにいれない。からっぽにする。からだだけになる。からだだけはねる。はねるのはからだ。からだだけリズムにあわせる。よけいなものがはいりこむすきまなんかもうあたえない。あんなばかがいきている。あんなばかもいきている。でもNはしんだ。しぬなんてばかなことだ。ばかなことをするやつはばかなんだろう。きっとばかだ。ばかなんだ。だからみんなばかだ。ならばみんなばかだ。ばかばっかりだ。ばかしかいない。ばかになるしかないこのせかいで おどる。



僕の家はすぐ近所だ。ほんの少しの距離だ。街灯が眩しく滲むのだけど、24時間駐車場の黄色い看板がやけに目に付く。一体いつ家に着くのだろう。気が遠くなりそうで、無理に小声で陽気な歌を歌ってみた。ドアが閉まり、部屋という壁に守られた途端、喉は破れた。



今日も誰かがいよいよの自殺を決行するだろう。知りもしないボクは何の心も痛みもしない。今も瀕死の人がいるでしょう。そんな人、知らないんだもの、どうしようもないさ。心配してその人の何が変わるっていうんだい。心配されてボクの生活の何が一体どう変わるのか。何も変わることはない。あの日道端で倒れる浮浪者。誰もいないと思っていたのに。夜の路上には数人のヒト。ボクがボクを見てた。素通りしよう素通りしよう!知らなければ痛むことはない。知ることは罰だ。何の罰だ!罪は生きていること、生きる事自体罪だなんて、陳腐なことは言いたくなんかない。罰に理由はない。生きることは苦しむことなのだ。そして、苦しいから苦しくて、しょうがないから、ほんの些細なことがきっと嬉しく嬉しくてしょうがないんだ。





なにもかも失えば、後はただ望むだけ。
彼の誕生日、あたたかな風がほほをなでる。



夜も音も更けにけり。




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