それは春。窓を開け放てば、むせかえる大地の気配に軽く目眩を覚える。彩度の高い瑞々しい緑。鼻腔をくすぐる草いきれにナランチャは昨日のことを思い出していた。ブチャラティに抱きしめられたこと。絡ませた指。自分の背中をやさしく押さえる腕。自分はまだただのチンピラで、ブチャラティのようなギャングにはなれないんじゃないかという曖昧な不安。俺にとってブチャラティはヒーローそのものなんだけど…。
ほろっと崩れるクッキーをつまみながら、ナランチャはおかわりをねだった。甘い甘いコーヒー。生クリームにチョコレート入り。これが彼の好み。ブチャラティは飲みかけのカプチーノをソーサーに戻して苦笑する。まだまだ成長途中の少年に甘いコーヒーをさらりと差し出す。
--ねぇねぇ、ブチャラティ
--ブチャラティ、聞いてよ!
ブチャラティは、俺のヒーロー。俺はブチャラティが大好きだ。街を仕切ってるけど、皆から慕われていて、外に出て誰とも口を利かないなんてまずありえない。大人になったらきっとそんな風になってみせるんだ。来年は俺も18歳だぜ!
ブチャラティの瞳にうっすらと翳る。
「ほらコーヒーの時間はもうおしまい。勉強の時間だろう。行って来いよ。」
もうフーゴに勉強を見てもらう時間だ。ブチャラティともっと話したいけど、勉強の時間は勉強だもの。遊ぶのはまた今度。結構アイツ時間にうるさいけど、俺が早く問題を解けば遊べないわけでもない。
「勉強は面白いか?」
「え・・・」
ブチャラティが、頬杖を付きながら、僕の頭を撫でる。前髪をおろしたり、毛先をもてあそんだり。どういうことなんだろう?でも俺はこういうの嫌いじゃない。ブチャラティ、なんだか疲れてるの?
「べつにイヤならしなくてもいいんだぞ」
「いやなんかじゃないよ。・・・俺、自分からフーゴにお願いしたし。どんどん次んトコに進んでるんだぜ。そのうちフーゴより頭良くなれるかもってなー」
「…そうかもな」
俺が教材を持って、部屋を出ていこうとするとブチャラティに呼び止められた。なに?と振り返る間もなく俺の両腕は捕らえられ、壁に押しつけられた。間近に見る黒い瞳。何か言いたげな唇。不意に俺は息が出来なくなって、唇を塞がれた。声を出そうと舌をひっこめるけど、ブチャラティの暖かさにかなうはずもなく、柔らかな侵入者を受け入れた。
フーゴは待ちくたびれていた。今日の勉強の時間はきっかり16時からだ。まあ黒髪のやんちゃチビは5分くらいの遅刻はしょっちゅうだったが、30分も遅れるなんて事は今までになかった。何かあったのかもしれない。近頃めっきり春らしくなって、裏地の肌触りがちょっと気になるようになってきた。そろそろ衣替えかもしれないな。夏物は麻のブルーグレーのスーツを仕立てよう。
フーゴは冷めたコーヒーに口を付けた。カップまで冷えてるとどうしようもないな、とフーゴは笑った。喉を潤すために飲む訳じゃないのに、冷めてると一気に飲める。コーヒーは人とお話をするための飲み物で、ナランチャと一緒に勉強をするために用意してたのに、問題の彼は全く現れそうにない。フーゴは何もいれないコーヒーが好きだけど、しょうがないのでナランチャ用のとびっきり甘いコーヒーも飲み干したら、ますます喉が渇いた。
16時45分。ノックも無しにナランチャがドアから飛び込んできた。
「ナランチャ・・・!」駆け寄ろうとしたフーゴは、ナランチャに軽く突き飛ばされ、フーゴには目もくれずにそのまま奥のベッドに突っ伏した。
「どうしたんです?ナランチャ」フーゴは若干傷付いたが、悟られないように精一杯いつもどおりのの声を装った。ナランチャは何も言わない。
「45分の遅刻ですよ。遅れるんだったらせめて連絡位してください」
「…うるっさいなあ!」起きあがったナランチャは手元のクッションをフーゴの方向へ投げつけた。
「何かイヤなことでもあったの?」「なんでもねーよ」
沈黙。
こんな時フーゴはどうすればいいのかわからなくなる。
「・・・そうですか。」
「悪ィ、遅れてごめん。フーゴ」
「遅れたことは、まあしょうがないです。何かあったのかと心配しました」
「別に、何もないんだけど・・・」
ナランチャが戸惑ってる様子がわかってフーゴは苦しくなった。
「勉強しようぜ、フーゴ。教えてくれよ。」
「言えないようなことなの?ねぇ、ナランチャ」
「別になんだってイイだろ。俺だって・・・」
ナランチャは言葉を飲み込んだ。
俺は全部フーゴに言わなきゃいけないの?俺がどこに行って何をしたか。今日の昼ご飯は誰と何を食べたのか。僕が好きなこと、好きなゲーム、好きな花。僕はいつだってなんだって話した。隠すつもりもなかったし、隠すこともなかった。フーゴは…俺がフーゴの望む範囲内にさえいれば、とても、やさしい。だけど、その境界線がどこにあるのかわからないけど、僕がそのラインを超えたとき、フーゴはとんでもなく冷たい目のフーゴになる。僕の知らないフーゴ。澄ました顔のフーゴかと思えば、泣きながら僕を殴ったり、蹴り付けたりする。そう思いたくはないんだけど、時折俺はひょっとしたらフーゴは俺のこと嫌いなのかなって思ったりする。そう思うと僕はたまらなく苦しい。昔は何されても何も感じなかったのに、フーゴに嫌われるんじゃないかって思うと、僕は動けなくなる。
テレビや雑誌を見て俺が素敵だっていったモノを、フーゴはたまたま見つけたよと持ってきてくれたりするし、2人でおいしいお店に一緒に行ったりするし、僕が参ってるときはギュッと抱きしめてキスしてくれたりする。それはとても心地よくて、俺もフーゴが好きだからとても素敵なことだって思う。だけど、だけど、たまらなく窮屈になる事があるんだ。愛されること。フーゴが僕をとても気にかけてくれること。
「ねぇナランチャ、何があったの?このフレグランス僕は知ってるよ」
ナランチャはベッドに横たわったまま顔を布団に埋めていた。
「キス、した。」
ナランチャの声はうまく聞き取れなかったけど、フーゴの心臓はドクッと動いた。
「え、聞き取れなかった、なんて言ったのナランチャ?」
血の気は引くけど聞き間違いだろう。なのに心臓だけが勝手に暴れ出す。
「ブチャラティとキスした」
目の前が真っ白になる。音が消える。
やっぱり・・・昔から変わらないブチャラティの香り。穏やかな白茶のパルファム。彼はブチャラティにとてつもなく憧れている。僕だって尊敬している。僕がパッショーネに入って、初めて抱かれたのはブチャラティだった。戸惑いはしたけど、僕は彼を愛していたはずだ。だけど、彼の愛は違った。何も面倒なことは無し、彼にとって都合のいいときに、僕が体をひらくのを愛していた。愛していたのは僕ではなく行為。それでも僕は良かった。気持ちいいのは好きだったし、彼の目が僕を見つめると何とも言えない気持ちになった。だけどアバッキオが現れて、僕は身を引いた。いや、引くしかなかったんだ。ブチャラティはアバッキオと何か通じ合うものを嗅ぎ付けたのだろう。僕はまるでお呼びでない。去るだけだ。だけど彼のためなら僕は今だって何だってするだろう。僕が拾ったナランチャの面倒を見たのはブチャラティだ。悔しいけどナランチャが懐いて当然だろう。やれやれ僕の好きな人、いつも皆、彼に奪われていてしまう。
「そうですか」
一体今の僕の声はきっと裏返っているだろう。
嫉妬だろうか、心配だろうか。なるべく普段通りにと思うのに。
ああ、僕らしくない。こんな自分はイヤだ。
何とかいつも通りに話したいって思うのに、自分を把握できない僕は、わからないままナランチャの目を追う。
「キス・・・だけ?…言いたくないなら言わなくていいんですけど・・・」
ナランチャは動かない。
「言わなきゃブチ切れるのはフーゴだろう」ナランチャの声が部屋に響く。
図星だった。でもだから何だというんだ。僕はナランチャが好きだ。ナランチャといつも一緒にいたい。でもそれは無理だから、僕と一緒にいないとき、何をしてるのか気になるんだ。はっきり言ってナランチャの全ての時間を把握しなければ僕の気は済まないだろう。こんな自分はイヤだけど、どうしてもどうしても気になるんだ。止められないんだ。ブチャラティがナランチャに手をかけた。キスをした。そうしたら彼がそれだけで終わるヤツじゃないのは、僕自身が非常によく知っている。
「キスだけじゃない。わかってます」
「え、何が?」
「そりゃ、いえないでしょうね、しらばっくれるでしょうね。僕との勉強時間の前にブチャラティとねぇ…。嬉しかったんでしょう。僕とキスだって何だってするくせに・・・僕のこと!僕より、もっと…」
フーゴは思ってることを堰き止められず、言葉はそのままナランチャを打ちのめす。
「やったんだろう。そのまま僕の部屋に来たんだろう。」
ナランチャが起きあがって、フーゴの方に向き直る。
「あはは、そうだよ」
吹っ切れた笑い。
破裂音。
頬の熱さ。
「どうしてっ、どうしてぇぇっ」
微笑みは全てを隠す。モナリザは決して微笑みを絶やさない。絶望的な壁。砦。
「だって、ブチャラティだって、好き…だし」
フーゴは泣きながらナランチャを打つ。打つだけでは飽きたらず拳で殴りつけ、日に焼けた喉節を、両手で締め付けさえした。こんな事をしちゃマズイと思うのに、僕は僕を止められない。何でそんなことを言えるの?何で笑いながらいえるの?僕が君のこと好きなの、わからないの?僕じゃダメなの?僕は、君にできるかぎりのことを、何でも出来る範囲で、して…僕の時間は全部君のために費やしてるのに。どうして君はわかってくれないの?
ナランチャの躯が強ばり、額にうっすら汗が浮かんできた。まっすぐに自分を見据える目にフーゴは気付かない。
「ナランチャ、僕のこと嫌い?僕だけじゃ、ダメ?僕はどうすればいいの?何でそんなひどいこと…」
「ナランチャひどいよひどい。どうして?!」
「…ひどいのはフーゴだろ」
「どういうこと?」
「フーゴ、俺がお前のこと嫌いだとでも思ってる?」
「…そうなっても仕方ないことをしてると思います」
「まぁな。でも俺がお前のこと好きなのって、ちゃんとわかってる?」
「え・・・」
「好きな部分は見ないで、俺がお前のこと嫌いに違いないって部分ばかりひっかきあつめてるだろ。お前。自分自分って、自分ばっかしじゃんか」
フーゴは困ったように瞼を伏せた。
「俺のこと好きなくせになにもわかっちゃいない。好きって言っても信じないフーゴ。」
切れた唇から滲む鉄の味。柔らかな内側がズキズキして言葉と一緒に血が溢れ出して、吐き捨てた。
タオルを持ってきたフーゴが唇を拭う。
「いいぜ、そんなことしなくって」
「だって君をこんな風にしたのは僕だから」
「だったらさー、もう少し頭よくなろうぜフーゴォ。オリコーサンなのは、お勉強だけな訳?」
目の奥が熱くなる。
「ナランチャは…つまり僕は、全部フーゴのモノ…そういうことだろ?」
床に両手をついて座り込んでいたフーゴに、ナランチャが膝立ちで近寄ると、右腕を背中にまわした。そのままフーゴの右二の腕を掴む。フーゴは身動きがとれない。
「俺がお前を好きなことなんてあるわけないって?」
ネクタイの結び目に指を差し入れ、やや乱暴に引っ張れば、あっけなくほどけるネクタイ。
「かわいそうなフーゴ、臆病なフーゴ」
背広がはだけて、程良く引き締まった上半身が露わになる。透き通るような肌に喉仏。どうして素直になれないの?俺のことを好きなこいつの身体、心。俺がねじ伏せたらコイツ一体どんな顔するだろう。
「信じることの出来ないフーゴ」
フーゴの髪の毛を鷲掴みにして、グイと後ろに引っぱれば仰け反るフーゴの首。困惑した表情。その様を悲しげに見つめ、床が2人を受け止めた。
ナランチャの唇が、フーゴに押し被さり、ぐっと奥まで入り込んでくる。乱暴な勢いだけのキス。軽く舌を噛む。ベルトを外す金属音が部屋に響く。自分のじゃないベルトを外すのは結構厄介だ。フーゴは撥ねつけてくるかもしれないけどそんなの知ったことか。グイとベルトを引っ張ると、フーゴがかすかに呻いたが構わず金具を抜いて振り解く。ズボンとパンツを左手で掴み、まどろっこしいから両方一緒に引きずりおろす。少し腰を浮かしたら「協力的じゃん」とナランチャが冷たく笑う。フーゴの頬は紅潮し、うっすらと浮かんだ汗が、艶めく。
「いつも俺にしてること、俺がしたっていいだろ」
床に着けたナランチャの両腕の間で、フーゴは横を向いて目を伏せる。板張りの床に、柔らかなグレイアッシュの髪の毛がひろがる。なめらかな首にひきよせられて、ナランチャは息を殺し、柔らかな皮膚を吸い上げる。かすかに声を上げるフーゴを抱きしめ、頭を挟み込む。鎖骨から胸板へ指先をおろして、どうしようか?とフーゴに問いかける。熱に潤むフーゴの眼差し。かろうじて漏れるのはナランチャの名前、それだけ。脇腹をさすり、耳たぶから首筋に舌を這わす。体中にキスを受け、フーゴは今にも泣きそうだった。ふと瞼をあければ、ナランチャはいつものまま、上着ひとつ脱いでいない。なのに自分は真っ裸で、ナランチャの刺激に息を漏らしている。
「フーゴ、いつもいつも俺を殴りつけるけど、ほっとかれるよりはましだ。ブチャラティだって好きだけどさ、フーゴとは…違うんだ」
「でも、嬉しかったんでしょ。ねぇ、いいんですよナランチャ。あなたが好きなら、僕は、」
余計なことを言うフーゴを焦らすのもやめにして、そのままフーゴの中心に貫き込んだ。いつもと逆の状況にナランチャは戸惑いながらも押さえることはできない。フーゴの表情にひろがる幽かな漣。カラダはカラダで黙らせる。抵抗することもなく鮮やかに色づくその声。いつも上にいるフーゴが今は下。組み臥されたまま甘く喘ぎ、瞼をあければ、絡み合う視線。ゆっくりと割り入り、異物感に声を漏らすフーゴをそのままフィルムに焼き付ける。僕が見たかったのはこんなフーゴ。いつも怒ってばかりなのに、今は泣いて俺をねだる。
ア マ イ ノ ダ イ ス キ
モ ッ ト モ ッ ト モ ッ ト
ダ イ ス キ ダ カ ラ モ ッ ト チ ョ ウ ダ イ !
漏れる吐息は限りなく。
強さは無意味に変わるこの部屋。
許される弱さはフシダラな嘘を飛び越える。
幾千回もの恍惚。
貴方の上で終わりたい。
怖いくらいの鳥肌ならば、俺は骨まで貪ろう。