LIQUID SOLID

ver1.03

何度目の春か、僕はもう分からない。
初めて煙草を吸って、通りすがりの男に吸い方が下手だと笑われた春。三叉路のまたにある雑貨屋でキーホルダーを買い、新しい生活に胸を膨らました春。買ったばかりのCDの歌詞カードを、公園のベンチでめくった春。水に隔てられたあの春。何も語らない素振りを見せながら、己に律した戒律に息を漏らしていた蒼い瞳。黒髪のあの人達は今どこだろう。今の僕はもう誰も待たない。



駅前のスクランブル交差点。数年前にできた大きなビル。12時間ぶりの煙草を吸えば、僅かに侵入したニコチンが体中をまわり指先が甘く痺れる。今日はどうやら風が強い。コートを整え、マフラーに顔を埋めると、街中のゴミが舞い上がり、僕の目の中で街灯が大きく滲んだ。頬が冷たい。メローネが店の軒先から出てきた。

「こういうのやめにしよう、俺達・・・」と口走った瞬間、性的な関係以外に何も結び付ける物はないと思い知った。友達の範疇にも入らない。ただ体を貪りあい、その後の食事だのお茶で、フーゴは懸命に話の糸を紡ごうとするのだけど、何も見つからず糸玉は地に落ちる。黙ったままの食事。そっとメローネの顔を見れば、僕への視線はいつもやさしい。だけど、そのやさしさはペットに向けられたようなもので、いつでもその身体を差し出してくれるようにと、明日へかけられた保険だ。それでも構わなかったのは、閉ざされた部屋と粘膜があまりに快ちよかったからで、こんなに身体は合うのに、心が合わないはずはないと、信じていたからだ。理由は、まだ会ってそんなに時間が経っていないのと、必要以上に身構えてしまう僕の心、チューニングが甘いんだ。僕のせい、かもしれない。

「そういうのなくてもいいんだ、俺。フツーの友達みたいに・・・」
「友達?おもしろいねキミ。」

頭をポンと押さえられ、キスで誤魔化された。

「そうじゃなくてもっと僕は・・・!」

「何が欲しいんだ?無償の愛か?出かける前に一緒に服を選んだり、君の髪を整えたり、夕飯は何にしようかだなんて、一緒に悩んだりしたいのかい?君はそんなにも無力なのか?」

「それは」

「誰かが君を傷付けたり・・・例えそれが俺だとしても。」

「あなたが僕を?」

「何かあったら駆けてく場所はあるだろう」

「うん…」

「まあ俺はそう思ってるってだけで。さいわい今日は金曜日の夜だ。つまらないことは気にしないで。君の一番大事な場所まで、俺はいたずらに踏み込みはしないよ。」

「・・・」

「おやすみ。」

やっとの思いで自分の住むマンションに辿り着くと、途端に沈丁花の香りが鼻を刺した。道路から左脇の広くはない玄関ホールは、風のおかげで香りの吹き溜まりを作っていた。暗さのせいで花は何処にあるかわからないが、こんなにも濃い香りは僕の記憶にはない。僕は自動ドアの前をぐるりとまわり、ゆっくりと息を吸った。

「ブチャラティが守ってくれたんだ。」

「そう、それはよかった」

・・・全然良くないけど。

「皆から離れるわけには行かないよ、さよなら、フーゴ」

「そう、さよなら」




・・・もしも僕が彼だったら


僕の心は掻き乱される。何がしたかったのか、何が欲しかったのか。今の僕にはもうまるでわからない。ナランチャはどうしてもブチャラティに吸い付いていく。僕のことはお構いなしでアッチに行ってしまう。あいつは俺が全く悟ってないと思ってるようだけど、手に取るように分かるんだぜ。お前はあいつが好きなんだろう。選択するまでもなく、無条件にブチャラティなんだろう。僕だってブチャラティに惹かれていたからわかる。今思い出せば笑っちゃう様な甘い台詞。口説き文句と辞書に書いてあるようなベタ甘のヤツ。何がいけなかったんだろう。きっと全部だ。出会ったときはお互い何も知らなかった。不幸なことにそれは僕だった。ブチャラティは誰にでもやさしい。何も知らない誰かが、僕という人間になったとき、彼は離れていったんだ。僕だけに向けられた、僕のための言葉ではなく、誰にでも向けられる体のいい言葉。そんなのナランチャは知らないだろう。知らなくっていいんだ。むしろ知らない方がいい。それは僕の歪んだ眼鏡で見た彼だけど、僕はもう誰でもない誰かにはなれない。


数葉の写真は常に僕のジャケットの内ポケットに入っている。いつもの食事。いつもの顔ぶれ。デジタルカメラを買ったのだけど昔のライカも少しは使ってみようと、その時僕は何の気もなしにシャッターを切った。大声を上げて笑うナランチャ。たしなめる風のブチャラティ。もしかするとそれは僕に向けられたものだったかもしれない。目を伏せてカップに唇をあてているアバッキオ。頬杖をついて目線を遣るミスタ。焼き付いた光。次の写真では、ナランチャの手がグラスを弾き、傾いた水がたわんだまま静止していた。軽く反った艶やかな印画紙の中で、水はこぼれる寸前で死んでいた。水自体憶えているはずもない瞬間にピンを刺し、僕の胸の中でこの紙はいつまでも息をし続けるだろう。愛は滅びたのに、ただの一枚の紙の方がよっぽど長持ちする恐ろしさ。笑う彼、とても遠い。

夜中の台所。僕は一人
シャンパングラスに液体を満たす。
立ち上る細かな泡の線。

さあ、滅びやすい愛のために乾杯。

残された紙片に乾杯。

いのちが蒼ざめそして黄ばむまで

いのちでないものに近づくまで

乾杯!


LIQUID SOLID


ここだけは、守られている。

僕の目から滴る液体と、腕から滴る液体。その違いは何?

僕は何度でも死に続ける。
ただいえるのは、僕はもう決して若くないということだ。


(04/02/27)